一行三昧(いちぎょうざんまい)

一行は一つひとつの行い、三昧は精神を集中して雑念を捨てること。
三昧の語源は、サンスクリット語のサマーディ、三摩地とも訳されます。Wikipediaには、精神集中が深まりきった後に訪れる深い瞑想状態、またはその先のさらに深い宇宙意識状態のこと、ありますが、私どもの禅ではそれを定ととらえます。同じくwikiには、心をひとつの対象に集中し心の散乱がないという精神の作用や、そのようにすることや、定まっているその状態を指すとあります。
少し難しいことと感じますが、簡単にいうと、一つのことに精神を集中して、無心で取り組むこととなります。この、何かを行うとき、そのことに無心に取一行は一つひとつの行い、三昧は精神を集中して雑念を捨てること。
この、何かを行うとき、そのことに無心に取り組むこと、これは道元禅師の教えそのものであるように思います。
食事をする時には、食事に徹する。朝、顔を洗う時は洗面に徹する。トイレで用を足すときは、それに徹する。日常のあらゆる動作、一つひとつを丁寧に、心を込めて大切に行うこと、それが大切なのです。
道元禅師は、特に食事を最も大切な修行の一つと捉えました。坐禅や読経もそうですが、食事を作ること、それをいただくことが修行であって、『典座教訓』や『赴粥飯法』といった著述に詳しく示されました。
『典座教訓』では、食事を作る際の三つの心がまえ、「喜心」「老心」「 大心」を示されました。「喜心」とは、いつも喜びを持って務めること、自分の仕事や役割が誰かの役に立っていると喜びや感謝を感じる心です。「老心」とは、老婆心ともいって、母親が自分の子供を思うように、相手の立場を思いやる心、慈悲の心でもあります。「大心」とは、大きな心をもつことで、偏った考えや、固執にとらわれない心です。
この心をもって、食事を作ることが修行であり、これは坐禅をしているときと同じ功徳があるのです。
このように、一つひとつの行いを手を抜かずに精一杯行うことが、禅の修行であり、それを続けることが、お釈迦さまの悟りの世界であると考えます。
