法食同輪(ほうじきどうりん)

法とはお釈迦さまのみ教えを示すものです。禅宗では坐禅を中心とした修行ととらえます。食は、修行における食事や、それに至る調理をすることなども含みます。この法と食は、車の車輪のように同時に動いているということです。
道元禅師は修行において、特に食事をすること、作ることの大切さを説かれました。それは、『典座教訓』や『赴粥飯法』といった著述に残されています。
『典座教訓』に、こんなエピソードがあります。
鎌倉時代、若き道元禅師は、正しい師匠を求め中国にわたります。ある時、寧波という町の港にいた道元禅師は、60歳くらいの年老いた僧侶と出逢います。老僧は道元禅師のいた日本の船のところに桑の実を買い求めてやってきました。老僧は、阿育王山の食事を司どる典座という役職であり、去年から典座の職に充てられて、明日の特別な説法の日のため、修行僧に美味しいものを食べさせてあげたいと思い、桑の実を求めてやってきたといいます。阿育王山はここから20キロ離れたところにあり、老典座はもう帰ろうとしていました。道元禅師は、その老僧を招待して、お茶の接待をしてあげました。
道元禅師「今日は、思いがけずあなたに出会えて、色々な話を聞くことができた。お礼に是非供養させてほしい」
老典座「それはいけません。もし、私が明日の食事を管理しなければ、それはうまくいきません」
道元禅師「阿育王山にも、食事の管理ができる僧侶がいるでしょう。あなたがいなくても、なんとかなるのではないですか」
老典座「私は、歳をとってから、この典座の職をいただいた。これこそ老人にもできる仏道修行である。どうして、この職を他人に譲ることができましょうか」
道元禅師「あなたのようなお歳で、どうして自ら坐禅修行につとめたり、先仏の仏道修行に関する書物を読んだりしないのですか。煩わしい典座の職をして、どんな良いことがあるのですか?」
老典座は、これを聞いて大きな声で笑って言った。
「外国からやってこられたお方よ、あなたは弁道修行が如何なるものかをよく良くわかっていないようだ。また、文字が何たるかをまだ知らないようだ」
道元禅師は、この言葉を聞いて恥ずかしくなり、深く感じて、典座に尋ねます。
「文字というものは、一体どんなものですか?弁道とは一体どんなことですか?」
老典座「今、あなたが質問されたことを、もし、うっかり見過ごしたりしなければ、いつかは、文字の何たるかを知り、弁道の何たるかを理解することができるでしょう」
この時、道元禅師は典座の言っていることを理解できませんでした。
そして、老典座は「もし、あなたが私の言ったことを理解できなければ、いつか阿育王山にやってきなさい」と言って、帰ってしまいます。
後日、この老典座が、天童山で修行していた道元禅師も元を訪ねてきました。そこで、再び、質問をしたのです。
道元禅師「文字とは何ですか」
老典座「一、二、三、四、五」
道元禅師「弁道とは何ですか」
老典座「偏界曽て蔵さず」(あまねくこの世界は、何も隠すことがなく、すっかり現れている)
経典や先仏が示された祖録などの文字は、文字であってそれを実際に理解して行動に移し、実践しなければ、それはただの文字に過ぎません。
弁道(修行)とは、私たちの目の前にある日常の中で行うもので、自らの生活そのものが弁道修行であるのです。
