以水為命(いすいいみょう)

水を以って、命と為す。

魚が水の中を泳いでいる時、泳いでも泳いでも、水に限りはありません。鳥が空を飛んでいる時、飛んでも飛んでも空に限りはありません。魚は、水から離れることはなく、小さく泳ぐ時は、水を小さく使い、大きく泳ぐ時は、水を大きく使います。鳥は空から離れることはなく、小さく飛ぶ時は、空を小さく使い、大きく飛ぶ時は、空を大きく使います。しかし、魚が水から出れば、すぐに魚は死んでしまいます、鳥が空から飛び出せは、鳥は死んでしまいます。魚にとって水は命であり、鳥にとって空は命であるのです。

道元禅師はお示しになられました『正法眼蔵』現成公案の中にある言葉です。

魚は、水の中を泳ぐことによってはじめて魚として存在します。もし魚が空にいたとしてもそれは魚ではありません。同時に水は、魚が泳ぐことによって水として存在します。魚と水の関係は、水があることによって魚であり、魚が泳いでいることによって水となるのです。

道元禅師は、これを私たちが行なっている坐禅にも言えると示します。

坐禅により仏道を修行すると、同時に仏の世界が実証される。仮に悟りと言いましょう。修行によって悟りの世界が目の前に現れ、同時に悟りの世界は、修行によって現れるということです。水と魚の関係は、修行と悟りの関係と同じなのです。

さらに、そうであるのに、水の全体を極め尽くした後に水の中と泳ごうとする魚がいたならば、その魚は泳ぐ道、泳ぐ所を得ることができません。
悟りの世界も一緒なのかもしれません。

私たちが、今、生きているこの世界こそが、真実の世界であると認識し、その世界の中で修行を続けることで、悟りの世界を現前させることにつながると思います。だからこそ、私たちは、修行を怠ることなく、続けていかなければならないのです。

今月の禅語(令和8年6月)

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