心不可得(しんふかとく)

心は得ることができない。心に実体はないといった意味です。
私たちには、自ら「心」を作り出しています。物事を見たり感じたち経験することによって、様々な心が生じます。そして、その心に束縛されたり、あるいは、苦悩を余儀なくされることがあります。その心とは一体何でしょうか?

『正法眼蔵』に「心不可得」という巻があります。
昔、中国が唐という時代であった頃、『金剛般若経』を研究し尽くしたという徳山というお坊さんがいました。徳山は、当時隆盛を誇っていた禅の教えを、自らの学識で論破しようと、大量のお経や自ら書いた書物を持って、ある禅寺の禅師を訪ねようとします。その道すがら、道端で餅売りのお婆さんと出会います。

徳山が訪ねます。「お前はどういう人かね」
お婆さんが答えます。「私は餅売りの老婆だよ」
徳山「私に餅を売ってくれ」
老婆「和尚さん、餅を買ってどうするんだい」
徳山「餅を買って点心(おやつ)にするのさ」
老婆「和尚さんが、そこにたくさん持っているものは何かね」
徳山「お前は知らないかもしれないが、私は、金剛経の大家だ。金剛経に関しては私にかなう者などいない。わからないことなど何一つない。ここにあるのは金剛経の注釈書だ」
これを聞いて老婆は「一つ質問があるよ、和尚さん尋ねてもいいかい」
徳山「いいよ、遠慮なく質問してごらん」
老婆「私が、以前「金剛経」を読むのを聞いていたら、過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得と言ってたよ。和尚さんは今、どの心で、餅を食べようとするのか、示してくれよ。和尚さんがもしちゃんと言ってくれれば、餅を売ってやろう。もしできないのなら餅は売らないよ」
徳山は、呆然として、何と答えて良いかわからなかった。
老婆はそれを見て、袖を翻して帰ってしまった。とうとう徳山に餅を売ってあげなかった。

『金剛経』というお経には、過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得と言った、三世心不可得が説かれています。過去、現在、未来にわたって心は常に変化していて、心そのものに実体がないと考えます。

徳山は、多くの書物を著わし、学問の上では、仏の教えである金剛経を文字の上で理解していました。しかし、老婆の問いに、現在、過去、未来の本当の心の意味については、自分事として理解できていなかったのです。心があるとかないとか、頭で考える事なく、修行をしている時の心そのものが大切であると示されたのではないでしょうか。

今月の禅語(令和7年9月)

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