冷暖自知(れいだんじち)

「人の水を飲みて、冷暖自ら知るが如し」

人が水を飲んで初めて冷たいとか温かいとかを、自らの体で本当に知るようなものである。
目の目にコップに入った水があるとします。それだけでは、その水が温かいのか、冷たいのかわかりません。
実際に、水を飲んで初めて、冷たいとか、温かいとかは知ることができるのです。

少し、私たちの身近なこととして考えてみましょう。
例えば、友達が、「あのお店のラーメンがすごく美味しかった」と、教えてくれたとします。
すると私は、「あのお店のラーメンは美味しい」という情報を得るわけでありますが、その情報は、上辺だけのことであって、なぜ美味しいのか、麺なのか、スープなのか、あるいは具材なのか、それともそれぞれのバランスがいいのか、実際に自分で食べてみないことには、本当の知識として得ることはできません。
実際に、自分でそのラーメンを食べて、初めてそれが美味しいということがわかるのです。もしかしたら、さほど人が言うほど美味しくないかもしれませんが。

誰かが体験したことを、どんなに詳しく聞いて、それに同調しても、本当に知るためには、自ら体験する意外にないのです。

今、インターネット上で検索すれば、どんな情報も得ることができます。
X、インスタグラムやフェースブックなどSNS、からは日々、情報が溢れ出ています。
また、最近はチャットGPTなどAIにより何でも解決してくれるような機能も出てきました。
世界中のあらゆることを目にすることができます。そして、理解したつもりになってしまいます。

しかし、それらの情報は本当に正しいのでしょうか?
仮に他人にとっては正しかったかもしれませんが、自分自身にとって正しいとは限りません。
それらは、自分で実際に見て聞いて体験することによって、初めてそれを自分のこととして理解することができます。
そうでなければ、イタズラにネットの情報を盲信して、誤った認識を持ち続けることになりかねません。

仏教では、温暖自知という言葉を、修行に当てはめます。
仏教というものは、経典を読んだり、人から教えてもらったりして悟ることができるものではありません。自らが仏の教えを修行、実践することによって、初めて悟りを得ることができるということなのです。

今月の禅語(令和6年7月)

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