雲遊萍寄(うんゆうひょうき)
萍は浮草のこと。
空をいく雲のように、水の流れに漂う浮草のように、一つのところに止まらず、悠々と行脚する境界。物事に執着せず、自然に任せて行動する事。
同じような言葉に「行雲流水」というものがあります。よく修行僧の事を雲水と言いますが、雲水はこの行雲流水を略したものです。
道元禅師は、西暦1200年のお生まれで、14歳の時に比叡山で得度され仏道を学んでいましたが、24歳に時に、さらに学ぶため当時は宋と言っていました中国に渡ります。宋では様々な寺院において修行に励みますが、如浄禅師さまのもとで、仏さまからの綿々と伝えられてきた正法‘(正しい教え)を引き継ぐことができました。
そして28歳の時に日本に帰国します。帰国後、初めての著述が坐禅の要諦を示した『普勧坐禅儀』で、また、道元禅師の教えの根本を示されました『弁道話』であります。
この最後に次のような言葉が出てきます
「仏法をねがわん哲匠、あわせて道をとぶらひ雲遊萍寄せん参学の真流に、のこす」
『弁道話』
道元禅師は、修行と悟りとは同一のものであり、修行をしているときが仏の姿であると示されました。そして、仏道を学ぶ者の心構えとしての『弁道話』を書き残したのです。仏法を冀う才能が優れた人、仏道を訪ねて、雲遊萍寄(雲のごとく行き、浮草の如く宿る行脚の旅)をしている参学の真実の人に、この本を書き残すのである。と締めています。
昔、修行中の僧侶は、より良き師、正い師匠を求めて、一つのところの止まっているのではなく、自由に諸国を遍歴したとのことです。道元禅師の時代もそうであったでしょう。そのような僧侶に対して、道元禅師は呼びかけたのです。そして、多くの僧侶が道元禅師の教えに共感して、その門を叩くのでありました。
また、空をいく雲のように、水の流れに漂う浮草のようにということは、物事の既成概念にこだわることなく、砂が水を吸うように、正しい師の教えを素直に受け入れて、自分で考えていくことが大切なのです。人生長く生きていると、自分では正しいと思っていたことも、仏の教えに照らし合わせると、決してそうではない場合も多々あるのです。