喫茶喫飯(きっさきっぱん)

茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す
お茶を出されたらありがたくお茶をいただき、ご飯を出されたら、ありがたくご飯をいただく。

現在、横浜市鶴見区にある、曹洞宗の大本山總持寺をお開きになられた瑩山禅師さま。
瑩山さまは、道元さまのお示しになられた禅の教を、広く日本全国に広める礎を築かれた方で、曹洞宗では道元さまとのお二人を両祖さまとして仰いでおります。この「喫茶喫飯」は、瑩山禅師さまに深く関わる禅語です。

瑩山さまは道元さまより4代後のお弟子さまです。
お師匠さまは、永平寺の3代住職の徹通義介禅師です。
加賀の大乗寺で、義介禅師のもとで厳しい修行をされていた瑩山さまは、27歳の時、義介禅師と問答を交わします。

瑩山さまはお師匠の義介禅師に向かって「私は仏法とは、何かと悟りました」と言います。
義介禅師「どのように悟ったのか言ってみよ」
瑩山さま「黒漆の崑崙夜裏に奔る」(黒い玉が、真っ暗な夜の闇の中を走っている)
義介禅師「さらに、別の言葉で示してみよ」
瑩山禅師「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す」

これを聞いて、義介禅師は、瑩山さまがお釈迦さまから連綿と続いてきた正しい仏法を受け継いだと認めたのです。

「黒漆の崑崙夜裏に奔る」、真っ暗な闇の中を、黒い玉が走っているさまは、何も見えません。だからといって何もないわけではありません。悟りも同じことで、何か目に見えるものであったり、形として姿を表すものではありません。

そして、さらにそれをすすめた、「喫茶喫飯」「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す」とは、「お茶を飲む時は、お茶を飲むことにが全てであり、ご飯をいただく時は、ご飯を食べることが全てである」ということです。そのには、美味しいとか、美味しくないとか、好きとか嫌いとかの分別は存在しない、そのことに徹するということです。

修行とは、その一つ一つの行いを、全てとして、一切の分別を取り除き、そのことを全うすることです。
坐禅の時は坐禅に徹し、作務の時は作務に徹し、食事の時は食事に徹して、それ以外の一切のことはしない。一瞬一瞬を無駄にしないで、大切に修して生きていくことが大切なのです。

来年は、瑩山禅師がお亡くなりになって、700回目のご命日を迎えます。私たちは、道元さま、瑩山さまはじめ歴代のお祖師さまがたが今日まで伝えてきた坐禅の教えを大切に、両祖さまをお慕い申し上げ、日々を過ごしてまいりたいと思います。

今月の禅語(令和5年12月)

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