
諸行無常(しょぎょうむじょう)
「祇園精舎の鐘の声。諸行無常の響きあり」平家物語冒頭にあります有名な一節にも「諸行無常」の言葉が使われています。
諸行無常とは、諸々の行いに、常なるものはない。この世のあらゆるものは常に移り変わっていて、何一つとして同じ状態で留まっているものはないということです。
さて、この「諸行無常」の言葉、これは仏教の基本的な考え方であります。
そして、この言葉を理解するには、「縁起」という考えを学ぶ必要があります。
よく「縁起物」とか「縁起が良い」とか「悪い」とかいいますが、この縁起です。
どうして諸行は無常なのか、それは全てのものが縁起しているからです。
お釈迦さまの教えはこの「縁起」という考え方で成り立っています。
縁起とは、物事は全て数えきれないほどたくさんの原因とその縁によって成り立っているとう考えです。
物事が起こる(存在する)には、必ず元になる原因があります。さまざまな原因となるものが幾重にも重なって、それぞれがお互いに影響し合うことで、物事が生じます。だから何一つ単独で生じるものはないのです。キリスト教では、神が創造主となり、物事が生じます。仏教は物事は成り立っていると考えます。
今、ここにあるものは、元からずっと同じ形でここにあったものではなく、様ざまな原因と縁が重なって、ここにあるのだというように考えます。原因の因と影響し合うご縁の縁、因と縁で因縁となります。
例えば、ここに1枚の紙が存在しています。紙の原料はパルプです。パルプを原料に製紙工場で様ざまな工程を経て紙が作られます。そのパルプは樹木の皮を取り除き、それをチップ状にしたものを科学的に処理して繊維を取り出して作られます。その樹木は、小さなタネが芽を出して、太陽の光とたくさんの雨水を吸収して、年月を経て大きな樹木となります。このように考えると、1枚の紙が今、ここに存在するために、どれだけたくさんの原因があって、またそれぞれが影響して今の形があるのです。そして、今ここにある紙はこのままずっと同じ形で止まるのではなく、この一瞬一瞬の間にも、空気の影響を受けたり、人間の力が加わって少しずつ変化して、いつかは紙という性質を全て失ってしまいます。
このように考えると、私たち人間の生命、身体も同じです。息を吸ったり、食事をすることで、常に新たしい細胞が生まれては、古い細胞が死んでいく。この繰り返しで、いつかは体の性質が失われて、命が尽きるのです。
諸行無常を考えると、あらためて今、この時が大切であると認識できるのはないでしょうか?