行持道環(ぎょうじどうかん)

行持の「行」は修行のこと。「持」は護持や持続といったような意味です。

修行道場では、日分行持と言って、朝起きてから、振鈴(起床)、洗面(顔を洗う)、暁天坐禅(朝の坐禅)、朝課諷経(朝のお勤め)、朝粥行鉢(朝食)、から開枕(就寝)の時まで作法が修行として、事細かに定められています。これを1日も休むことなく毎日続けます。さらに月ごとの修行を月分行持、1年間を通しての修行を年分行持といって道元禅師さまの教えに則った生活が営まれています。

「仏祖の大道、かならず無上の行持あり、道環して断絶せず、発心・修行・菩提・涅槃、しばらくの間隙あらず、行持道環なり」

『正法眼蔵』「行持」巻

仏道(仏の道)には、必ず無上(この上ない)の行持(修行の持続)がある。その行持は巡り巡って断絶することがない。発心し、発心すれば修行して、修行すれば菩提(悟り)を得て、菩提に至れば涅槃の境地に至る。その間には少しの隙間もない。行持は道環する、つまりめぐり巡って終わりがない。

一般的には、まずは初めに悟りを求めて発心して、その結果に修行が行われて、修行を積み重ねることによって悟りが得られ、悟りの結果、涅槃、仏教でいう究極の境地に至るものと直線的に考えます。
しかし、禅では、これらは環状線のように円を描いて、巡り巡って終わりがないと捉えます。一度、涅槃に至ればそれで終わりではありません。さらに発心して修行しなければなりません。これを生きている間、何度も何度も繰り返すのです。それこそが仏の命を生きることなのです。

さらに言えば、それらの発心、修行、菩提、涅槃は、巡り巡って終わりがないのではなく、それは一つである。悟ための修行ではなく、修行それ自体が悟りである。悟りの他に修行があるわけではないとも考えられます。

今月の禅語(令和5年5月)

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