
即心是仏(そくしんぜぶつ)
文字の通り読みますと、「心が即ち、是れ仏」となります。
「心がそのまま仏である」
「衆生の心がそのまま仏であるということ。」(広辞苑)
となります。
さて、ここでいう心とは一体何なのでしょうか?
心というものを肉体に宿る精神と理解してしまうと、心と肉体は別のものであって、たとえ肉体は滅しても、精神は滅することはないという考えになってしまいます。
例えで言えば、家が火事になり焼け落ちても、家に住んでいる人は家を捨てて出ていくので無事であるというようなことです。体は常に移り変わり無常であり、心は永遠不変で常住であるという考えです。
道元禅師は、この考えを強く批判します。
即心是仏の心をこのように考えてしまうと、誰の心も仏である。既に心は仏であるのだから修行などしなくてもいいというようになってしまいます。
そうではなく、心と身体は一つである。だから、発心して、修行して、菩提を得て、涅槃に至る。その時の心が仏であり、これが即心是仏であると考えました。発心、修行をしている時、その時がたとえ短い時間であったとしても、心は仏である。未だかって発心修行をしていないのであれば、それは即心是仏ではないと。
この「即心是仏」という言葉は、曹洞宗のお経「修証義」の最終節に出てきます。
「謂ゆる諸仏とは釈迦牟尼仏なり、釈迦牟尼仏是れ即心是仏なり、過去現在未来の諸仏、共に仏と成る時は必ず釈迦牟尼仏と成るなり、是れ即心是仏なり、即心是仏というは誰というぞと審細に参究すべし、正に仏恩を報ずるにてあらん。」
『修証義』第5章「行持報恩」
諸々の仏さまは、すべて釈迦牟尼仏のことであります。釈迦牟尼仏とは、即心是仏の仏さまのことであります。即心是仏は、私たちの心がそのまま仏さまという意味ですが、ただそのままというわけではなく、発心して修行して、初めて仏になるのです。過去、現在、未来の仏さまが修行して仏さまとなる時は、必ず釈迦牟尼仏になっているのです。