修証一等(しゅしょういっとう)

修(修行)と証(悟り)は同一であるということ。

道元禅師は、それまでの修行を積み重ねることによって悟りが得られるとの考えに対し、悟りとはただひたすらに修行を実践している時に現れるものであり、修行をし続けなければならないと考えました。
修証不二、修証一如ともいいます。

曹洞宗の基本的な決まり事を定めた『曹洞宗宗憲』では、教えの根本を示した教義の条文において「本宗は、修証義の四大綱領に則り禅戒一如、修証不二の妙諦を実践することを教義の大綱とする。」と定めています。

道元禅師がまだ若き頃、修行をしていた比叡山では「本来本法性、天然自性身」といって、人間は生まれながらにして仏の性質を持っているのであり、生まれながらにして悟っているのだという考え方が主流でした。
道元禅師は、それならば、どうして仏の教えを伝えてきた祖師方は発心して仏法を求め血の滲むような修行を続けてきたのか、といった疑問を持つこととなります。
多くの人に、その疑問を投げつけますが、誰もが十分に答えることができませんでした。
その後、道元禅師は中国に渡り、さらに修行を続けます。そして、ついに正師となる如浄禅師に出会います。如浄禅師のもとでは厳しい禅の修行が行われていて、道元禅師はさらに修行に励みます。
そしてついに身心脱落の境地に至り、修行とは何かということを学んだわけです。
日本に帰ってから、自らの意志を書き示した『弁道話』では、「仏法(仏の教え)には、修証(修行と悟り)これ一等なり」、さらに、「この法は、人々の分上にゆたかにそなわれりといえども、いまだ修せざるにはあらわれず、証せざるにはうることなし」、仏の法は、誰にでも何不足なく備わっているものであるけれども、修行しないと現れることはなく、修行して実証しなければ自分のものにならないと説いています。逆にいうと、たとえ悟りを得た人であっても、その人が修行を怠れば、たちまちに悟っていないことになってしまいます。

人は悟りを得るという目標のために修行をするのではなく、仏祖の教えにかなった修行を、一時一時怠ることなく、涅槃のその時が来るまでひたすら弁道しつづけることが大切なのであります。

今月の禅語(令和5年3月)

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