廓然無聖(かくねんむしょう)

ガランとしていて、何ものにも執着しない自由な心
廓然とは、心が晴れわたり、わだかまりのないさまの意味です。
この言葉は、インドから中国へ禅の教えを伝えた達磨大師にちなんだ禅語です。

七転び八起き、縁起物の「だるまさん」としても知られる達磨大師ですが、インドの香至国の王子として生まれ、深く仏教に帰依し、般若多羅尊者のもとで修行され、お釈迦さまから数えて28代目のお祖師さまに数えられます。中国の梁の時代にインドから中国へ渡られ中国禅宗の初祖とされています。150歳まで生きたとの伝説も残っています。

今から1500年ほど前、当時、梁という国を治めていた武帝との問答が伝えられています。

武帝は、厚く仏教を信仰し、多くの仏塔や寺を建立しました。そんな武帝は達磨大師に「私は即位以来、寺を造立し、写経をし、多くの僧を得度させ、仏教を保護してきたが、一体どれくらいの功徳があるのか」と質問しました。達磨大師はそれに対して「無功徳」功徳はないと答えました。武帝は納得がいかず、さらに「仏教で一番大切なものは何か」と問います。そこで達磨大師は「廓然無聖」と答えました。何もないということです。
もちろん、仏教の教えに大切なものは何もないということはありません。言葉や文字には限界があり、仏の教え、真理を言葉だけで表現することはできないということです。あるいは禅は言葉のやりとりで理解することができない。執着を離れ、心と身体をもって修行を実践することが本当の仏教の姿であると示されたのではないでしょうか。
武帝は、達磨大師の言葉を理解することができず、さらに「私の前にいるのは誰か」と質問します。達磨大師は「不識」わからない、と答えました。
このように、達磨大師と武帝との問答は噛み合わず、達磨大師はその後、少林寺にわたり面壁九年、9年間、壁に向かって坐禅し続けたと言われています。

さて、10月5日は、達磨大師のご命日、達磨忌になります。曹洞宗の寺院では本堂の中央にご本尊さまをお祀りし、その左側に達磨大師のお像を安置しています。当山も当日は達磨大師のご遺徳を偲び、朝の勤行に引き続き達磨忌の法要を執り行います。

今月の禅語(令和4年10月)

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