身心脱落(しんじんだつらく)

肉体(身)も精神(心)も、一切のとらわれを逃れて、自在の境地に入ること。この身心でさとること。(仏教語大辞典)

道元禅師が若くして中国(当時の宋)に留学中のことです。
道元禅師が、お師匠さまにあたる天童山の如浄禅師さまのもとで、大勢の僧侶と共に坐禅をしていたとき、ある一人の僧が居眠りをしていたそうです。如浄禅師は「坐禅はすべからく身心脱落である。ひたすら居眠りばかりしている。何のために坐っているのか」と一喝されたということです。それを聞いた道元禅師は、如常禅師の「身心脱落」という言葉により悟りを開かれたといわれています。

身心脱落を、もう少しわかりやすくしますと、あらゆる自我意識を捨ててしまうこととも言えます。私たちは普段、「自分が…」、「自分が…」いった自我の意識を持っています。「私は立派な人間だ」「私は社会の役に立っている」といった優越感、「私はダメな人間だ」「どうぜ何をやってもうまくいいかない」といった劣等感、人それぞれさまざまな自我の意識を持っています。そういった自我の意識、全て捨て去ってしまえ、さらには意識だけではなく、身体をも捨て去ってしまえ。そうした拘りを全て抜け落とし自由自在の心になること、これが身心脱落なのではないでしょうか。

参禅は身心脱落なり。焼香・礼拜・念仏・修懺・看経を用いず、只管に打坐して始めて得ん。(「正法眼蔵」行持巻より)

坐禅によって何かと求めようとする意識、坐禅によって自が悟ろうとする意識、それらも全て捨て去って、ひたすら坐禅になりきること、坐禅の時は、修行の上で大切な焼香や礼拜といった坐禅以外のものは一切用いず、只管に打坐することが身心脱落へつながっていくと考えます。

今月の禅語(令和4年8月)

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